桜の森について

抜きとられ、植えられて

1980年、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは「ミル・プラトー」(千のプラトー)というタイトルで、資本主義と分裂症を扱った本を出版しました。この本の序文は、植物性の現象であるリゾーム(根茎)について書いています。リゾーム(根茎)に特徴的なのは、根との違いです。根は、ある決まった起点から、副根や茎が出てきます。その意味で、根は、起源と枝分かれのイメージ、つまりヒエラルキー構造を表しています。リゾーム(根茎)はそれに対し、主根、副根の区別はなく、どの場所もさまざまな結びつきの起点となり得ます。リゾーム(根茎)について逆説的に見えるのは、どの点からも根を張ることができると同時に、厳密な意味での根や起源は語れなくなってしまうことです。一つの中心の代わりにたくさんの中心、ただし、それはもはや中心ではなく、節と結合があるのみです。このリゾーム(根茎)構造の考え方は、ドゥルーズとガタリによる資本主義と分裂症、すなわち、いまだに結びついている二つの文化的現象についての考察を特徴づけています。さて、どうしてこの本の話になったのでしょうか。その理由は、偶然のリゾーム(根茎)的結びつきにあります。すなわち、千のプラトーの代わりに、千本の桜の木が、オーストリア存立1000年を記念する象徴的な贈り物として、日本からオーストリアに贈られました。そして、日本に生まれウィーンに生きる二人の芸術家、森口雅浩と森口章代が、その贈り物の一部を、芸術的な「分枝」のために使うよう招かれました。それらの木はドナウインゼルの並木道沿いに植樹されます。その意味で、このプロジェクトは千のプラトーと根とも関係があります。
ドゥルーズとガタリにとっては、まさに木とそれが根を下ろすことは、文化的な「起源」についての考え方としては問題の多いモデルなのです。文化圏を越えてコミュニケーションが行われる社会の下では、木のモデルは問題をはらんでいます。一つの文化から一本の木が抜き取られ、異質な起源の印として他の文化のコンテキストに植え込まれるだけでは、その木はよそもの、あるいはディアスポラの印でしかありません。ウィーンで花見を祝うなどということは、その時点では、たいへん奇異に聞こえるだけです。しかし、森口らは、二つの端のことを考えて、桜を使います。一端は並木道と交差し、もう一端はビオトープ、すなわち、自ら「よそもの」と人工的な影響から一線を画そうとする土着の自然さに行き着くのです。しかし、自然さと人工的であることは、なかなか相容れようとしない二つの対立する概念です。この対立の中で、森口らは「石」を置きます。平たく言えば、両端の間を結びつけるための石です。これらの石が、根を張ることはできないながら、「しっかり固定される」という事実は、ここで語ろうとしていた文化的なコンテキストを改めて表しています。そして、そのコンテキストは、国境を越えて流れる河の姿にはっきりと現れています。

アンドレアス・シュピーグル
インディペンデントキューレター, 美術評論家

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